かわいひでとし日記
令和6年4月25日      独善      人間は社会の一員
  
もう何十年も前の事、自分がまだ若者だった頃の事だ。

レインボーパレードというのが有ると聞いて、差別はいけない事だから参加してみよう、

と思ったのだった。

そして実際に参加してみたのだけれど、違和感しか残らなかった。

ゲイの人を差別しないでください、と言いたいのであれば、

どうしてこんな裸同然の恰好でパレードするのだろう、というのが率直な疑問だった。

ゲイも同じ人間なんです、と言いたいのであれば、

それこそ凄く「普通な」そこらへんにいるサラリーマンみたいな恰好で

パレードすれば良いのに、と率直に思ったのだった。

ゲイの感覚では裸同然の恰好が「セクシー」だったり「かっこいい」だったり

するのは別に、その事自体は悪い事ではない。

けれど、ゲイではない人に訴えるのであれば、ゲイではない人も

共感できる様に訴えたらどうなのか、と思ったのだった。

いや、そうではなく、ありのままを伝えるのだ、という反論が有るかもしれないが、

性的な嗜好というものは、公衆の面前でおおっぴらにするものではなく、

普段は「普通にしている」のが当たり前の事だと思ったから違和感を感じたのだ。

あれ以来あのパレードには参加した事は無い。

そして今、ああいう活動について、ゲイ当事者たちから否定的な意見が多く見られる。

利権目的とか、別に差別なんかされていないから大人しくしていてくれ、とか、

そんな感じだ。

全く同感だ。

けれど、LGBTではないストレートな人が薄い理解で「差別はいけないから」と、

パレードに参加したり支援したりしているのを見て、理解が浅いと感じてしまう。

当事者たちが批判的なのになぜ部外者が「良い事をしている」と

勘違いして支援してしまうのだろうか。


ある女子がこんな事を言っているのを聞いた事が有る。

イケメンの彼氏が出来たのに、彼がSMプレイが好きで絶望した、と。

自分としては、なんだ、SMプレイくらい別に驚くほどの事も無いではないか、

という感覚だ。

もちろんその彼女がSMプレイをイヤだと思うのなら嫌うのも問題無い。

ただ、そんなもんで驚いていたら誰とも付き合えやしないよ、という感覚は有る。

スカトロ好きな人だって居るし、露出好きな人だって居るし、

性癖は人それぞれだ。

そして、その事自体は別に悪くは無いのだ。

ただそれを他人に押し付けたりしてはいけないのであって、

そういう事はプライベートに、閉じた空間で同好者同士でやれば良い事なのだ。

自分がセクシーだと思っても、他人から見れば気持ち悪いと思うのだろうな、

という感覚が欠如している様な人にはどうも賛同できない。

それを「表現の自由」だと主張しても良いけれど、好きではない人に見せつけるのはよろしくない。

私がセクシーだと思っているのに、どうしてお前はセクシーだと思わないのか、

それは差別だ、というのはもう滅茶苦茶だと思う。

他人がどう感じるのかまで考えが及ばない人なのだろうと思ってしまう。

ドラアグクィーンとかクイアとか呼ばれる人達が居る。

それ自体は別に悪い事ではない。

また、小児性愛の人が居るが、その事自体は別に悪いとは思わない。

ただ、それを実際にやってしまえば犯罪になってしまう。

だから自分は小児性愛の人は大変だなあ、と同情をしてしまう。

だって、なりたくてそうなった訳でもないのだろうから、

実際に行動出来ないのは本当に辛いのではなかろうか。


同性愛だろうが、スカトロだろうがSMだろうが別に悪くはない。

それらは個人の勝手であり、非難される事ではないのだけれど、

それを公衆の面前に押し出してしまったり、他人に押し付けるのは容認出来ない。

外国のツイッターから流れて来る動画などで見るのだけれど、

どう見てもいかつい男性にしか見えない人が、

店員に「ミスター」と呼ばれて激怒しているものが有った。

私は女なのだ、ミスターと言いやがって許せない!と激怒しているのだ。

その人がトランスであっても全然問題ではないが、他人に押し付けるな、と言いたい。

他人から見て女性には見えず、男性だと思われるだろうという思考が無いのだろうか。


さて、話は全く変わって、政治の話。

主義主張は人それぞれだ。

けれど、見ていると、反対意見を抹殺しようとする人達が居る。

これもいただけない。

どちらが正しいかきちんと討論をすれば良い。

ただ、実際に討論会となると、紳士的、論理的に話をしない人が居て、

結局言い合い、平行線、ケンカ腰、になって成果が出ない事が多い。

それも結局、相手の話を聞かないからだと思う。

お互いに妥協点を見つけられないものか、という気持ちで話をする気持ちが欠けている。

そもそも最初から最後までずっとポジショントークになり、

妥協点を探すなどとんでもなく、とにかく相手を殲滅したいだけ、という事なのだ。


以前、「表現の不自由展」というものが問題になった事が有った。

昭和天皇の写真を焼き、さらにそれを靴で踏みつける動画などが展示された。

これを公金の補助を受けて行う事には反対する、という意見が出た。

自分もこれを見て、物凄くイヤな気持ちになった。

反対した人達の言い分は、表現の自由かもしれないがそれを公金を使ってやるな、

というものだった。

自分としてはその意見に賛同する。

個人でやるのは勝手だという事なのだけれど、自分としては何かを批判したいのであれば、

他人をイヤな気持ちにさせる方法ではなく、もっと論理的にやったらどうかと思う。

結局これも、他人から見てどう思われるかという視点が足りないのではないかと思う。

違う意見の人にも賛同して貰いたいと思ってやっている様には見えない。

とにかく自分の言いたい事だけを言いっぱなしで、相手がどう思おうが関係ないようだ。


さて、エロビデオとかエッチな画像とか、自分も若い頃から随分お世話になったものだ。

けれど、日本ではこういうビデオにモザイクがかかっている。

それも、局部にのみモザイクがかかっていたりする。

これは一体何なのだろうと、若い頃からずっと疑問に思っていた。

局部にのみモザイクをかけるって、それこそ本当のヘンタイではないか、と思ったりした。

ビデオ制作者にモザイクをかける様に指導している「ケーサツ」ってヘンタイだろうと思った。

エッチなものを見たい人が見るビデオにモザイクをかけるって、

一体どういう意味だろうと疑問に思う。

規制するターゲットが違うのではないだろうか。

局部を規制してどうする、と思う。

規制するならそれを置く場所を規制しなさいよ、と思うのだ。

見たい人だけが見られる場所に置きなさい、見たくない人から見えない様にしなさい、

と、そいういう規制をすれば良いではないか、と思う訳だ。

へんな事をするなあ、と若い時は特に、そして今でもそう思っている。


人間というものはそもそも独善的なものなのかもしれない。

ただ、人間は社会で生きる生き物なのだ。

好きな人も居るし、気に入らないヤツも居る。

けれどしょうがない、一緒に生きていなければならないのだ。

こんなヤツとは付き合いたくない、という相手とは別に仲良くはしなくても良い。

ただ、全く無視したり、他人を殲滅しようと思ったりしてはいけないのだ。

自分の出来る範囲で他人を一定程度はリスペクトしていないと社会が成り立たない。

人間は不完全で、完璧に出来る人は居ないけれど、

できるだけ他人の事も考える様にしないといけない。

と、まあ、色々な事を書きましたが、みなさんはどんな風に考えるでしょうか。

自分なりに考えて整理してから世の中に乗り出しましょう。














活動家という破壊者たち      感謝が俯瞰を生む

ワガママジコチュー公金チューチュー      少子化対策

ケーキの切れない人々      境界知能





コメントなどはツイッターやメールでお願いします



@kawaihidetoshi をフォロー

 

日記のトップへ戻る

かわいひでとしホームページ

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 倫理・道徳へ
にほんブログ村