「売る売らないはワタシが決める」を読んで。


 
言葉の限界という事をいつも感じるのだけれど、人間の事をいくら言葉を並べて話しても、どうしても限界が有るのだと思う。
ましてや、人間のことを語るのに、「論理的」ということが、一体意味が有るのか疑問に思う事もしばしば有る。
この本を読んでいて、そういう思いを一層強く持ってしまった。

こういう考え方を伝えたいというとき、言葉で伝える以外になかなか方法は無いわけで、仕方が無いのだけれど、かといってその言葉を理論的に操れば良いというものでもないだろうと思う。
言葉という限られた力を持つ道具によって考えを他人に伝える場合、ちっとも理論的ではないけれど、いくつかのエピソードを並べてみるのは、意外と人間の本質を突く事が出来る方法だと思う。
(俺の大切な本、サン・テグジュペリの「人間の土地」という本も、まさにそういう本なんだけれど、、。)
そういう意味で、アキラさんの文章はかなり光っていたと思う。理論ではなく、本当に経験した人ならではの言葉。知っているからこそ出てくる考えのネットワークとでも言ったらいいのだろうか。理論によって本質を語ろうとするのではなく、本質に触れずとも、その回りに有るいくつかのエピソードを語る事によって、読む者にその中心に有る本質を感じさせるというような語り方だ。
太陽という本質を語る時に、地球が青く光っている事や月食という現象が起こる事などを話して、太陽というものを想像させる、というわけだ。「太陽は、直径が○○キロあって、温度が○度有り、、、、」と説明するのと、地球が青く光っているのを説明するのとでは、前者の方が解ったような気になるかもしれないけれど、後者の方が太陽のすばらしさが解ると思う。
人間を語る時、言葉の無力さを補う方法として、これはかなり有効だと思う。

松沢呉一さんの文章。松沢さんが良く使った手法で、言葉を置き換えて考えてみる、というのが有ったけれど、これはなかなか面白い。
どうしてかというと、これもやはり本質というものを想像させる方法だと思うからだ。この本は売春について書いて有る本だけれど、売春が良いとか悪いとかいう議論をするという事は、実は売春という表面の事だけ語れば済むわけではなく、もっともっと根っこのほうから語らないと意味がなくなってしまう。
この場合、松沢さんの語り方は、方程式を示して、それにいろいろな職業や行動をあてはめてみせ、実はその方程式こそが本質なのだと相手に伝えるわけだ。
今書いた通り、売春が良いとか悪いとか考えるということは、売春だけを考えれば済むわけではないという事に気が付くと思う。
ポルノの性器の部分だけにモザイクをかけさせて正義が守られたとしてしまうこの社会とか、それを構成する人間がどうやって育てられたのか、とか、どんどん思いが時間を遡って行って、学校の先生ってどうして社会経験を積んだ民間出身者がやらないんだろう、とかいうことまで考えはじめてしまう。

売春もセックスも、人間の在り方という「太陽」を語る為の、たくさんある人間のエピソードという「惑星」のひとつにすぎないということだろうか。
俺の12月12日の日記で言いたかったのもこんな事です。


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