かわいひでとし日記
令和5年5月1日      ブサイク鏡      人間は社会の一員
  
昔、若くてイケメンだった頃、

ブサイクな友達が鏡を見て髪の毛直しているのを見て、

ブサイクでも髪とか気にするんか、と、驚いた事が有った。

なんというひどい事を思ったものだと思いますが、

その時、

「そうなのか、ブサイクでも自分はイケてると思ってるのか」

と、気が付いたのでした。

それ以降、見た目を気にする人を見る度に、

この人も自分はカッコいいと思っているのか、、、と考えたりしたものだった。

本当にどうもすいませんが、正直、若い頃の自分がそう思ったのです。

あんなにブサイクなのに髪の毛とか服とか気にしたってしょーがないじゃん、

とか、思ったのでした。

ほんとにすいませんねぇ、ごめんなさい。

それで、その後もそういうつもりで他人を見る様になってしまって、

なんか、凄く服とかに気を使っている人って、何故かみんなブサイクだな、

とか、

こんなブサイクなのに彼女と手つないで歩いてるんか、、、

とか、

色々と人間を見ては思う様になってしまいました。

で、自分なりの結論として、

ブサイクな人でも自分はかっこいいと思っている

男から見るかっこいい男と、女から見るかっこいい男は違う、

顔はブサイクでも優しかったり、凄くテクニシャンだったりして女にモテる人が居る

などなど、自分なりに色々思ったのでした。

いや、これは若い頃の自分が考えた事ですんで、どうもすいません。


で、最近何かと話題のLGBTに関する事がネットに流れて来て考えました。

精神的には女性だと言う男性の画像を見ると、

なんだか美しく見えない人がたくさん居る。

というか、正直言ってキモい人が多い。

で、この人たちって、「ワタシは美しい」と思っているのだろうか、

という疑問がむくむくと湧き上がってきたのでした。

トランス女性がリアル女性から非難されて、

あんたがどう思おうが関係ない! ワタシはワタシのやりたい様にやる!

と言い返している動画を見て、やっぱりそうなのかなあと考えた。

自分だけ良ければそれで良いと思っているのか、と思った。

だって、圧倒的多数の生物学的女性が使うトイレを無くしてしまう、

という乱暴な事をするというのは、

自分だけ良ければあとは知った事ではない、と考えているとしか思えない。

非常に視野が狭く、自分の事しか考えない人たちがやっている運動なのではないのか、

という疑念がむくむくと湧いて来るのだった。

だってそうでしょう、女性が怖がるとか女性が不快に思うとか、

そういう事についての言及が全然無いまま、

私を女性トイレに入れろ、私を女性スポーツに出場させろ、

私を女性刑務所に入れろ、と主張しているのですよ。

もし自分だったら、いくらなんでも遠慮するだろうと思うのですよ。

他人に迷惑になるから遠慮しようと思うでしょう、普通は。

だから、なんかおかしいんですよ。

かなり偏った性格をしている人たちなんじゃないでしょうか。

自分もマイノリティだけれど、

自分は少数派なんだから周りに合わせようと思って生きてきたし、

それが苦痛というわけでもなく、当たり前に思って生きてきた。

回りに合わせて、それも苦痛に感じずに社会の一員になろうと思って生きてきて、

差別されたと感じた事も無く今まで生きてきた。

そういう自分から見ると、やっぱりあの人たちは人間性がちょっと、あれ、

なんじゃなかろうか、と思うのが正直な思いです。

女性トイレを無くしてしまったり、男性を女性に混ぜてスポーツさせたり、

なんでそんなアホな事をしているんだろう、というのが正直な思いです。

アメリカでも、ようやくそういう反省から、正常に戻そうとする動きが出てきている。

さらに、共和党が多数派の議会なので、差別禁止法の様な法律は成立しない。

良く、先進国で日本だけがそういう法律が無いなどと言う人が居るが、

そういう法律が有るのは先進国ではカナダ1国だけだそうだ。

そして重大な事実は、日本はキリスト教国ではない、ということだ。

キリスト教国の様な差別など元々存在しなかった国だ。

なんでこんな事をするのだろうと疑問でしかたがない。

利権か何か絡んでいるのだろうかとさえ思ってしまう。

圧倒的多数の女性を迫害して良いわけがない。

ネットを見ていても「自分はマイノリティだが法案には反対」という声が多い。

生物学的には男性だが自分は女性だと思うのは個人の勝手で自由だとは思うが、

社会と協調する必要は有るはずで、ここは自分が遠慮しないといけないな、

と言う考えを持ったほうが良いと思う。

はっきり言って、トイレは男性用、女性用、多目的が有ればそれで良い。


随分昔の事だけれど、

有意義な事なんだろうと思ってレインボーパレードに参加した事が有る。

けれど、参加してみてかなり強い違和感を覚えたのだった。

なんで同性愛者の権利を主張する必要が有るのか、

殆ど制限を受けている実感が無かったので良く解らなかったし、

その権利を主張するデモ行進で、どうして裸同然の恰好をして歩く必要が有るのか。

ストレートの人達に向かって主張したいのであれば、

わざわざ嫌悪感を持たれるような恰好をする必要が有るのだろうか、

という違和感だった。

これをストレートの人が見たら「気持ち悪い」と思うだろう、というのが実感だった。

そういう事をする気持ちが良く解らなかった。

同性愛者も同じ人間だとストレートの人に向かって主張したいのであれば、

裸ではなくて、スーツでも着て、どこから見ても「ふつーの人」

にしか見えない恰好で歩いたほうが効果が有るのではないんだろうか、と思う。

他の人が嫌悪感を抱くかもしれない、

という気づかいが有ったほうが良いと思うのだけれど、、、、。

ここらへんが不思議な所なのだが、トランス女性がトイレを使うのであれば、

多目的トイレに入れば良いのだが、女性用じゃないとイヤだと言う。

それって、トイレで用を足す以外の願望が混ざってしまっているのではないのか。

他人に気を使うという気持ちが有れば遠慮するところは遠慮した方が良いと思う。

それが社会人というものではないのだろうか。

自分のしたい事と、他人への気遣いとを計って行動するべきではないのだろうか。


みんな同じ人間だ、というのであれば、社会の一員として生きるべきではないだろうか。

正直な感想として、本当に強く思ったのだった。


とにかく、差別禁止法案を作る事にいきり立っている人達が、

目を覚まして冷静になってもらいたいと思っています。




優しさという虐待


マイノリティ 

 


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