かわいひでとし日記
令和3年6月15日      ウーバーイーツ    仕事と労力と人間力
 

チャリで走っているとすごく良く見かけるんで、

なんでウーバーイーツのバイトをするんだろう、という単純なギモンを感じていた。

2時間の普通のバイトに行けば必ず2000円になるのに、と思っていた。

要するに拘束される感じがイヤだったり、人と関わるのがイヤだったりするからだろうか、と思っていた。

試しにウーバーに登録をしてみた。

アメリカの企業だねぇ、やっぱり。

面接やら履歴書やらは一切無し。

身分証明書とキャッシュカードの画像をオンラインで送るだけ。

この時注意が必要なのは、給料はアメリカから送られるので、それが可能な銀行でなければならないこと。

ネット銀行や信金、ゆうちょはダメ。

さらに登録が済むと、配達用のバッグが必要になる。

この専用バッグは無くても良いが、無いと配達を拒否されることも有る、

と書いてある。

これは自腹で買う。

新品で6000円くらい、中古で4000円くらい、、、、。

たけーよ。

で、仕事の単価は、というと、地域によって違いが有る。

だいたい100円から400円くらい。

これは都心部だと高く、外に行くほど安い感じ。

自分の住んでいる杉並区だと、ほとんど100円くらい。

これさあ、1件10分でやったとしても、1時間で600円でしょ?

でも400円なら4時間くらいで1万円弱になるかな。

単価の良いところでやらなくちゃならないかもね。

結局、単価の良い地域で効率よくやる事が出来れば普通のバイトより稼ぎが良い。

がしかし、それも自分なりのノウハウを培ってからでないと難しいだろう。

で結局は毎日拘束時間が出来る事になる。

何故ウーバーをやるのか、考えるとやはり、拘束されたくないから、なのだと想像するのだけれど、そうなのでしょうか。

拘束されたくない、その日の気分による、気を使いたくない、みたいな感じなのでしょうか。

でも結果的には拘束されると思うんですが、途中でくたびれたらそこまでで切り上げられるとか、

今日はやる気しないからやらないとか、その辺が自由だと感じるからやるんでしょうかね。

稼ごうと思ったら結果的には結構な拘束を受ける事になるけれど、あんまり稼がなくて良いなら自由に出来る、

でも、一定程度稼ごうと思ったら一定程度の拘束は受ける。

さらに、雨、猛暑、寒さ、などの気象条件も有る。

どっかの店の店員のバイトとかのほうが気持ちが楽そうに思えるが、どうなんでしょう。

まあ、その日の気分で出来るからという事なんでしょうか、、、。

稼ぐ人はかなり稼ぐらしいし、効率よく出来る人には良いバイトなのかもしれない。

これも結局、良く働く人は稼ぐし、あまり働かなければ稼げないというのは他のバイトと同じ事ですね。




さて、その日の気分に左右される事についてずっと思うところが有った。

約束をしても当日ドタキャンするとかいう類の話。

昔、友達と会う約束をするというのは、前日か何日か前に相談して、1時にハチ公前で、などと決めておいて会ったものだった。


でも、スマホが無い時代に、決めた時間に会う約束をする、という事は自分に責任のタガがはめられるということ。

遅刻しない様に行かなくちゃとプレッシャーがかかるということ。

こういうことが出来る様になってはじめて、社会人と言えるのではないだろうか。

もし遅刻しそうになったら、急いだり走ったりするしかない。

携帯電話などと言うものが無い時代はそうだったのだ。

この雨の中、あるいは、このクソ暑い中、相手が立って待っているのかと思うと、

責任というものを感じて、疲れようが汗だくになろうが走っていく気になるのだ。

この、相手を待たせてしまっている、という気持ちを持てるかどうか、

これは人間として大きな差なのではないだろうか。

ケイタイが有るのが当然な世代にとっては不思議な事なのかもしれないが、

ケイタイが無い事によって、自分の力でなんとかする部分が増えるわけで、

それが相手の気持ちが解る人間力などにつながる、という事ではないだろうか。


相手が大幅に遅刻した場合はどうなるのか、というと、

昔は駅前などに「伝言板」というものが有った。

黒板にチョークで書く様なものだ。

そこに書くのだ。

「チコちゃんへ、30分待ったけど来ないので、近くの純喫茶田園に居ます」などと。

純喫茶というのは喫茶店のこと、カフェの事を当時はそう呼んでいた。

これはたぶん、お酒を出さずに純粋にお茶だけ飲む店です、という意味ではないだろうか。

そういうわけで、ある程度拘束されたり責任を感じたりするのはたまには必要な事ではないでしょうか。

ウーバーで働くにしても、一見自由に見えるけど、稼ごうと思ったらそんなに自由な訳はない、という事ですね。

日本の企業だったら、お客に失礼な事をしたりしないだろうか、だの、

トラブルを起こさないだろうかなどと心配して、

面接をしてさらに講習をしてからという事にしたりするのだろうと思う。

しかし、それもやがて形骸化してしまって、カタチばかりのものになってしまったりしている。

結局は責任を感じてやってくれる人でないと、どうにもならんという事なのだろう。


人間はみな平等で自由である権利を持っている、などと教えられてしまうけれど、

生きているという事は一定程度の制約が有り、能力によって差別され、

やりたくない事をやらねばならず、テキトウな事をしてしまうと後で罰を受ける、

色々なタガをはめられているということ。

なんでもかんでも自分の思うとおりにできるわけではない。

子猫だの子犬だの、動物をかわいいと思い、飼いたいと思っても最後まで面倒を見られない人はダメでしょう。

以前、飼えなくなったので山に放した、という話を本人から直接聞いたことが有ったが、

ショックで夜も眠れなくなってしまった事が有った。

いつも夜は一緒に寝ていたり、優しくしてもらっていたり、

時間になるとごはんをもらっていた動物がある日突然、真っ暗な山の中に一人で放り出される、、、、

考えただけでぞっとします。

もし自分がそうされたらどんな気持ちになるだろうか、と考えてみれば、

それがどんなにひどい事か分ると思うのです。

相手が待っている、相手が来ると思って待っている、その為の準備もした、

そして待っている、と思えば遅刻しそうになったら汗だくで走ろうと思うのではないでしょうか。

生きているという事は色々な責任のタガがはまっているという事です。

かわいい動物と一緒に暮らす、という、のほほんとした様に見える事でも、実は相当な覚悟と毎日の労働が必要になる。

社会のタガの中で一定の拘束を受けながらでも明るく暮らせる人間になる事が一番必要で楽ちんな事なのではないでしょうか。

なので自分が楽しく生きていく為に、あまりやりたくないけれどやったほうが自分が成長できると思う事を、

修行だと思って少しずつでもやったほうが有意義じゃんじゃないでしょうか。

人と関わるのが苦手な人でも、自分を成長させようと思って、少しずつでも、

ほんとに少しずつでも良いのでやってみて前に進んでいく、という事のほうが有意義なんじゃないでしょうか。

勉強は苦手だけど、仕事の為に勉強したほうが良いと思えば少しずつでもやったほうが良い。

運動不足なら運動は苦手でも、出来ることから少しずつやってみたほうが良い。

気が進まない事でも、嫌な事でも、やったほうが良い、

やるべき事は少しずつでも徐々に慣れていこうと思ってやってみるのは結構大切な事なんじゃないでしょうか。

完全無欠でなくても、ある程度の責任を感じて、相手の気持ちを想像して、

そのために自分に制約がかかるという事は当たり前の事として生きていなければならないのではないでしょうか。

なので、そういう制約に慣れて、それを圧迫ととらえるのではなく、自分の責任として、

それが当たり前だと思えるような人間になれればいいですね。

自分も精進致します。

ウーバーで月に50万稼ぐ人も居るそうです。

結局は自分の気持ち、自分の労力、自分の克己心、相手に喜ばれる人間力なのでしょう。


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