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| 令和8年5月25日 ボタンを押す人々 とても偉い人々 |
| 押しボタン式信号、というものが有る。 道を渡りたい時いつも、このボタンを押すのをためらう。 というのは、たかが自分1人が道を渡る為に、たくさんのクルマを停めるなど、 そんなもったいない事をしても良いのだろうか、と思うからだ。 とは言うものの、ボタンを押さずに渡るとなると信号無視、という事になってしまう。 クルマが多くて切れ目なく続いて来る様な道路であれば、 これはもうボタンを押さざるを得ないのだけれど、 ちょっと待てばクルマが切れる様な道路であれば、 わざわざ信号を変えなくても良いのではないか、 そんな事をしたらもったいない、と思ってしまう。 これは自分なりの道徳的美徳だと思っているのだけれど、 交通違反になるのだ。 しかし、自転車に乗っている時は軽車両なのだから、 横断歩道の信号に従う義理も無く、クルマが切れたら渡るのだ。 だからクルマが切れる道路なら、ボタンを押さずにちょっと待ってから渡る。 こいつは一体何を言っているのだ、と思うかもしれないが、 たかが自分1人が渡るのにわざわざ信号を変えてクルマを停めてしまうのは申し訳ない、 という気持ちなのだが、解ってもらえるだろうか。 これはまあ、昭和の感覚なのかもしれないのだが、 そんな事を気にもせずにどんどんボタンを押す人達を見ていて、 遠慮する様な気持ちにはならないのだろうか、と思ったりする。 そんなもん、信号無視になるからボタンを押せや、という事になるのだけれど。 ネットで見た動画で、こんなのが有った。 電車でトラブルになり、ケンカになって言い合いになっている状態。 そしてその1人が非常停止ボタンを押す、という動画だ。 人間が二人で言い合いの喧嘩をしているだけで、わざわざ電車を停めるのは、 なんだか違和感を感じる。 また、駅のホームに居た時に見たのだけれど、 線路に物を落としてしまってすぐに非常停止ボタンを押すのだ。 今、JRでは線路に物を落としたら回収するのは終電後になります、 という注意喚起をしているが、物を落とすほうが悪いのであって、 わざわざたくさんの人が利用する電車を停めてしまうのはやはり違和感だ。 こういう、すぐボタンを押す人々を見ていると、 オマエはそんなに偉いのか、と言いたい気持ちになる。 なんでオマエ1人の為に大勢が割を食わなければならないのか、という事だ。 まあ、これを読んで、何言ってんだこいつ、と思うかもしれないが、 せめて、気持ちの上では申し訳ないと思ってボタンを押して欲しいと思うのだ。 安全が最優先です、それはそうです、だからボタンを押すのもやむを得ないかもしれないが、 申し訳ない気持ちで一杯になりながらボタンを押して欲しい、、、、。 これに賛同する人が一体どれほど居るか解らないけれど、 自分としてはそう思うのです。 ネットなどを読んでいると良く見かける話なのだが、 会社で新卒入社ホヤホヤの若い社員が、 会社の飲み会に参加したくない、それって残業代出るんですか? とか言う話。 これもねぇ、自分としてはたまにはお付き合いも必要でしょうよ、 と言いたくなるのだけれど、、、 業務じゃなくて気持ちの問題なら出ません、 と言われて言葉に詰まってしまう上司たちも多い様だ。 人間というものは社会で生活する生き物なのだ。 自分1人で生きる事は出来ないのだ。 その新人社員クンだって、今までの約20年、どれほど他人の世話になって来たことか。 彼は世話になった事など無い、自分の力で生きてきた、と思っているのかもしれない。 とんでもない事で、物凄く多く他人の世話になっているのだ。 そもそも、水道の蛇口をひねれば水が出たり、スイッチを入れれば電気が点いたり、 電車が動いていたり、会社員であれば多くの物を会社が負担してくれていたりする。 さらに休暇を取ればその分誰かがやってくれていたりもするのだ。 であれば自分が他人の世話をする事だってするべきなのだ。 それが無償であってもたまには他人の世話をしたりするのが 社会人なのではないだろうか。 なぜなら自分は王様ではなく、社会の一員に過ぎないのだから。 お互い様と思って欲しいと思うのだ。 そういう風に話をしてもその新人君は解ってくれないのだろうか。 良く、会社に不満が有るから転職する、という話を聞く。 そうするとおじさんとしては、 ここで上手く出来ないのに他に行っても上手く出来ないだろう、 と思うのだ。 転職した先がそんなに良い所だという保証など無いのだ。 今居るところで上手にやれないのであれば、他に行っても同じなのだ。 そんな風に思うのだ。 ということで、心の片隅にはいつも、感謝の心や遠慮する心、 自分も社会の一員であって王様ではない、 という気持ちを忘れない様にして欲しいと思う。 さて、最後に自分の経験で感じた事を少し付け加える。 今までたくさんの若者たちと出会って来たのだが、 実に色々な人間が居るものだ。 そんな中、とてもきちんとしている子だな、と思う事が有る。 そこで、ああこの子は多分、あれだろうな、と思ったりする。 そこで聞いてみる。 もしかして、おじいちゃん子だった? と。 そうするとかなりの確率でそうなのだ。 いえ、おじいちゃん子ではなくて、おばあちゃんですけど、という事も有る。 昭和の前半くらいまでは日本では家の中に両親だけでなく、 じいさんばあさんも居たものだった。 孫がじいさんばあさんに躾けられたり、話を聞いたりして育つと、 なんだかきちんとした子に育つ様に感じる。 それが核家族化で、両親だけになり、さらに父親は殆ど育児に関わらない、 なんていう事も起きている。 まあこれは自分の感覚であって、科学的根拠などは無いのだけれど、 ちょっとそんな事はいつも感じたりしています。
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